これまでに取り組んだ事件

-飯島過労自殺裁判-

過労自殺とは
 近年「過労自殺」という言葉がマスコミなどでも使われるようになりました。心臓や脳の急疾患によって過労死するのも悲劇ですが、それ以上に過労によって自殺せざるをえなかったというのは、余りにも哀れです。
働き過ぎのため自らの命を断つ-これほとの悲劇はありません。
 労災補償保険は、仕事が原因となっている死亡やケガに対して支給されるばずなのに、自殺に対しては、労働省は「故意による死亡」であるとして支給しませんでした。

残業代を妻内職代名義で
 飯島千恵子さんの亡夫盛さんは1985年、自殺しました。残業代が多すぎるために妻の内職代として支給されるほどに長時間働いていました。
 故林豊太郎弁護士が1989年に始めた「過労死110番」の第1号が、この飯島さんの相談でした。まだ当時全国的にも少ない過労自殺に対する労災申請をしました。

医師意見書無視
 申請を調査した大町労基者は、自ら鑑定依頼した精神医3名のうち2名が「労災を認めるべき」という意見を出したのに、これを隠していて、労災として認めない決定をしました。

スピード裁判で勝訴
 当初、提訴や「実名報道」を拒んでいた千恵子さんも、周りの支援で決断し、提訴しました。2年余りのスピード裁判で勝利判決を勝ち取りました。過労自殺について行政手続で労災として認めなかったものを裁判で取り消させた全国初の判決です。

全国トップのニュース

 全国のテレビ、新聞のトップで報道されました。
 故林弁護士のあとをついだ松村弁護士、新人で参加した相馬弁護士をはじめ8名の弁護団の知恵の結集と、10万を超える署名、俳優の小林千登勢さんや坂本義和束大名誉教授の「ひとこと」などの運動の成果です

飯島裁判、それぞれの判決日
 飯島過労自殺裁判の判決が1999年3月12日言い渡された。 この事件に直接かかわってきた松村弁護士、相馬弁護士、堀内は、勝利を確信しつつも、それぞれが期待と不安を胸に判決日を迎えた。
 弁護団長の松村弁護士は、その責任の重さからか、判決日の1週間程前から、毎日のように夢を見るようになった。朝、事務所にきては、「今日のは勝った夢 だった」とか、「裁判官が笑っていたから大丈夫だ」と喜んだかと思うと、次の日になると「法廷の雰囲気がおかしい夢だった」とか、「自分には勝ったと聞こ えたが、新聞記者が、結論が逆だと言うんだ」と心配したりと、どうも落ち着かない。(心配した松村夫人が、判決当日はつき添っていった)。
 一方、当日、たれ幕をもって判決結果を知らせる大役を任された相馬弁護士は、長野地裁にいった際、事前に、たれ幕の持ち方や出す方向をリハーサルして入 念にチェック。ただし、用意するたれ幕は「勝訴」のみ。「負けた時のものは用意するな」と松村弁護士から言われているからだ。しかし、心配だ。そこで、相 馬弁護士は、これまで出された準備書面を、何度も読み返しては、「これで負けるはずはない」と自分を納得させていた。
 さらに、堀内にいたっては、前日に食事を注文する際、「明日は勝つように、カツ(勝つ)丼にしてください」と縁起かつぎをする始末だ。しかも、当日は、この日のために買い揃えた新しいスーツで、身を清めて判決にのそんだ。
 そして、判決当日。勝訴判決に松村弁護士は、法廷の傍聴席に向かってにこやかにVサインを送り、法廷を飛び出した相馬弁護士は、「勝訴」のたれ幕を左手に持ちながら、リハーサルでイメージしたとおり、右手で小さくガッツポーズを決めていた。


(しらかば 1999.4)

 

信州しらかば法律事務所

HOMEご相談について弁護士費用について事務所のご紹介業務内容取り扱い事件役立つ法律情報署名のコーナーリンク集これまでの事務所ニュース

Copyright (c) 2009 shinshu shirakaba Law firm. All Rights Reserved.