67名が立ち上がった裁判、10月28日いよいよ第1回弁論
全国で突出した開拓団を送り出した長野県での中国「残留孤児」訴訟
午後2時から長野地裁で行われる裁判で原告が意見陳述します。現在、駒ヶ根市に住むSさんご兄妹(71才・68才)は、この3月に私に次のように語っています。
弁護士 毛利正道
佐久・八千穂村の家の周りには20戸ほどの小作農家がありましたが、村じゅう集められて「生活苦しい人は中国に行くように」と言われ一戸毎に移住する先を指示され、ほとんどの家が開拓団として旧満州に渡りました。
私たち7人一家が昭和16年から敗戦時まで4年余り住んでいた家は、元々中国人が住んでいた古い草葺屋根の家屋でした(日本が中国人を追い出し、一方的に取り上げたものですー毛利注)。ソ連国境近くの大草原のなかにある、道もない、寒さも厳しく米もよく取れない土地でした。
母親は寝る間がない中、既に昭和19年に38才の若さで亡くなっていましたが、20年8月14日、私たちが13才と10才の時、ソ連軍や中国人から逃れるために近くの100名ほどの日本人と一緒に一家で逃げ出しました。中国人が追いかけて来て、焼き打ちにあって殺された人もいました。私たち家族も鶏密県城子河という所で、ソ連軍や中国人の襲撃に会い、39才の父・14才の兄・1才の弟が目の前で撃たれて殺されました。私たち2人は、食べる物もなく、道端の牛の足跡に貯まった雨水を飲んで5日間ようやく生きのび、とても親切な王さんから自宅に連れていってもらい、九死に一生を得ました。
その直後、村の人々が多数王さんの家に押しかけて来て、「日本人を出せ、出さないならこの村から出て行け」と言いましたが、王さんの奥さんは馬鞭を持って庭の真ん中に立ち「この子たちは私の子どもです。この庭の中に入ると私は許しません」と毎日がんばり続けてくれました。養父母のおかげで私たちは救われました。その後も貧しいながら私たちを育て上げてくれました。
私たちは20数年前に子どもらと共に帰国しました。いつか自分の故郷に帰れる夢を持って長年異国で生きていて、やっと自分の故郷へ帰れる日が来て、嬉しくて2晩眠れませんでした。でも、帰国後、言葉も通じない中でみんな苦難の生活になりました。現在わずかな国民年金しか収入がなく、重い病気を抱え、二人とも単身生活が不可能な状態です。一緒に帰国した子どもたちが、日本語もままならないなか、必死に介護してくれていますが皆、生活がとても苦しいです。今後、更に高齢になり、病気も重くなっていくことを思うと暗いせつない気持ちになります。
日本国の指示で中国に開拓団として行かされた結果が、今の辛く苦しい・先が暗い生活です。せめて私たちが晩年安心して生活できるよう政府は、住居・医療・年金などの面で十分考えていただきたい、よろしくお願いします。
(しらかば 2004.10)
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