事務所ニュースしらかば

しらかば 第101

≪あいさつ≫
≪コラム(握手)≫
≪菊地弁護士を偲んで≫
≪横断歩行者がいるとき、あなたは・・・≫
≪なくせじん肺・アスベスト県民の集い≫
≪突風のような総選挙 木島日出夫≫
≪毛利栄子の ~県政さわやか報告~≫

 

≪あいさつ≫

御 礼

 読者のみなさん。総選挙でのご支援誠にありがとうございました。残念ながら比例代表選挙で私共事務所の弁護士でもある木島日出夫さんの議席をわずかな差で回復することが出来ませんでした。
 今回の選挙は、郵政民営化の是非を唯一の争点にし、「改革を止めるな」と絶叫した小泉自民党キャンペーンが、国民のいだいている政治への閉塞感を打破するかのような漠然とした期待感を広範な有権者に与え、それに第一党が一人勝ちするという小選挙区制度の弊害も相まって自民党圧勝という結果をつくり出しました。
 数を得た小泉内閣がこれから行おうとする改革は、庶民大増税路線であり、平和を脅かす憲法9条の改定にあります。個々の力は微力ですが、くらしを守り平和を願う多くのみなさんと共に平和で豊かな社会の実現を目指し、地道な努力を積み重ねて参りたいと思います。
 今後とも、よろしくお願い申し上げます。
所員一同

 

≪コラム(握手)≫

 「北信越を巡る12日間世直しの旅」・・・私はか弱く見えるのか、通しのアナウンサーに決まった時、周りの人達の方が不安気だったような?
 確かに夜間の長距離移動もある過酷な日程。それでも雨の日も風の日も、(まさしく台風上陸!)、焦げ付くような日照りの中でも・・・どうにかやり抜けたのは、「何としても議席奪還」をめざす、木島日出夫さんの燃えるような気迫に日々包まれていたからでしょう!
 そして私の背中を押し続けてくれた多くの出会い。障害者手帳を見せながら、すがるように党への期待を語ってくれた男性、「防空壕の中で生まれた私には、孫達に戦争のある世の中を残さない責任がある」と涙を浮かべた老婦人。選挙カーと平行して走る路面電車の窓からこちらをずっと拝み続けるおばあちゃん・・・共産党への偏見が強い北陸の地でも精一杯の方法で支持を表明してくれる人々の想いに、涙でアナウンスの声をつまらせながらも、「勝つ」ことしか考えられなかった日々でした。
 選挙結果が出た時、「漠然とした期待」で、「改革」に票を投じた多くの人々の存在を思い知らされ、気力を失いかけました。が、「政見放送を見て共産党にした」「他に入れようと思ったけどチラシを読んだら共産党しかなかった」という身近な人達の言葉が、また私に元気を与えてくれました。
 もっと目を向けてもらう、もっと耳を傾けてもらえるような魅力ある党を築くため、さあ、もう一度歩みださなければ!


≪菊地弁護士を偲んで≫

菊地弁護士の経歴

福島県出身。苦学の末25才で司法試験に合格。修習を終えた1963年(昭38)4月、社会変革のために生きることを決意し当事務所へ入所。故林百郎さんの全ての事件を一挙に引き受け、同年11月に行われた選挙での10年ぶりの衆議院議員返り咲きに縁の下で貢献。当時を振り返り、「今日はこの事件、明日はこの事件と記録を渡され各裁判所を飛び回る有様であったが、林百郎さんからは実に多くのことを学び、その後の弁護活動の土台を築いた」と記している。その後も事務所総力を挙げた辰野事件を始め、信州名鉄解雇事件、塩嶺トンネル事件など権力の横暴と立ちむかい、社会正義実現のため一貫して尽力してきた。当法律事務所在職42年。この間、長野県弁護士会副会長、日本共産党長野県後援会会長、日本国民救援会諏訪支部長、日本棋院諏訪支部長などを歴任。穏和でねばり強い人柄は、これまで事務所をまとめ支えてきた。自由法曹団弁護士として生きて、満70才。この10月栄誉ある古稀表彰を受ける。


菊地弁護士1年目の思い出
菊地さんは1963年(S38)4月、弁護士として活動を始めました(私も、同じ時に事務局員となりました)。
それまでの選挙(5回連続落選)の時は、東京などから弁護士が応援に来ていたようですが、自前で、事務所を強化しようという時期でした。
百郎先生は、事件(200件位抱えていたと思う)のことが気になって、中々、候補者活動に専念できない状況でした。こんな百郎先生を仕事から切り離し、候補者活動に専念させる意味もあって、7月から約40日、当時のソビエトを訪問しました。
そして、この間に、新米弁護士菊地さんが、全部の事件を引き受けることになりました。当時は、ほとんどが被告事件で法律的には不利な事件が多かったのですが、膨大な事件を抱え、依頼者との十分な打ち合わせもままならない中、毎日県内の裁判所を飛び歩き、悪戦苦闘しながら事件を解決していました。
この年の11月、百郎先生は当選を果たしましたが、菊地さんの功績は大きかったと思います。
菊地さんは、「法律事務所の門をくぐる人は、いろんな悩みを一身に背負って来るのであり、弁護士は単に勝つか負けるかという観点で相談に乗るのではなく、相談者と一緒にその悩みをどう解決するかという立場で事件を処理すべきだ」と言っていましたが、この時の経験から生まれたものだと思います。
(森)

先生の手談
菊地弁護士と私は、弁護士と担当事務局として長期間いっしょに仕事をしてきました。先生は、どんな事件でも依頼者の立場に立ち、粘り強く手続をとられていました。
仕事以外でも活動を共にしてきました。日本国民救援会諏訪地方支部の支部長と事務局長、救援美術展の実行委員長と事務局長、諏訪地方「進歩の礎」合葬追悼会の実行委員長と事務局長、日本棋院諏訪支部(囲碁)の支部長と幹事長の関係でした。
先生は、囲碁仲間から推薦されて諏訪支部の支部長に就任していました。囲碁は、手談とも言われていますが、先生の打ち方は早く、仲間から「頭の体操ではなく手の運動ではないか。」と言われたほどでした。退院する前日には「囲碁の5段を目指したい。」と意欲を示し、本榧の碁盤を購入しました。その時の先生はとても活き活きしていて、体力回復後の生き方のなかに、囲碁も重要な位置付けをされていたことがうかがえました。しかし、楽しみにしていた新しい碁盤で手談することなく再入院となってしまいました。5段を目指し、囲碁に愛着を持っていた先生と打てなくなってしまい、残念でなりません。
(高田)

出会えた幸せをかみしめて
今年見た一番きれいな桜は、裁判所の帰り道に先生と寄った、伊那の春日城址の桜でした。生憎の雨の中でしたが、桜の天井に守られ、桃色の絨毯を踏みしめながら、先生とつかの間の春を満喫しました。
あれから、まだ数ヶ月しか経っていないなんて嘘のようです。ふっと顔を上げると、そこに先生があのいたずらっぽい笑顔で笑っているような、そんな気がする時もあります。
未だ悪い夢から醒めていないような、そんな自分を励ます方法を探し続け、今、ようやく見つかりつつあります。
先生の粘り強さの土台に存在していた「人間一人一人を尊重する心、大切に思う心」。その先生の心にめぐり会えた幸せを噛みしめよう、その精神を自分自身の中に育てることを目標に歩みだそう・・・先生への感謝の気持ちと一緒に。
(松下) 




≪横断歩行者がいるとき、あなたは・・・≫


13才少女の命が奪われた
 周囲に人家が多い幹線道路(直線)の信号機のない横断歩道で、夜間、歩いて渡っていたYさん(13才)が、右方から来た車両に跳ねられ死亡しました。Yさんは、道路端でしばらく立っていましたが、右方の車が時速35kmと比較的低速で、しかも左方からの車が横断歩道手前で停止するために減速してくれたため、横断しても大丈夫と思ったのでしょう。一方、跳ねた運転者から立っていたYさんを発見することは十分できる状況でしたが、Yさんを発見することなく、徐行もしていませんでした。

判決「被害者に過失あり」
 この事故について、ご両親が加害者に大きな過失があると主張して損害賠償請求の裁判をおこしましたが、裁判所は加害者に大きな過失はなく、一方、被害者に過失があったとして、全損害額から5%カットしました。ご両親は到底納得できないとして控訴しました。
 この事故で加害者は、横断歩道端に立っていたYさんを見落とすという前方注視義務違反と、横断者がいないことが明らかでない場合に徐行する義務違反、二つの不注意を侵しています。それでも、単なる普通の過失しかないことになるのでしょうか。
 一方Yさんは、夜間だと運転者から歩行者が見えにくい(のにあえて横断した)ことを理由に、被害者にも不注意があったとして数百万円の損害金を削られました。

左から右に横断しているとき、手前から来た車にはねられた
(現在の現場状況)

歩行者の「聖域」なのに
横断歩道は「歩道」であり、交通弱者である歩行者にとって「聖域」(警察官の言葉)です。だからこそ、「横断しようとする者がいないことが明らかな場合」でない限り、運転者に、横断歩道手前で直ちに停止できる速度で進行しなければならない「徐行義務」が課せられているのです(むろん、信号機をたくさん設置するなど行政のやるべきことは多いのですが、ここではあえてふれません)。でも横断歩道での事故が目立ちます。皆さんは横断歩道の端に歩行者がいるかいつもよく注意していますか。

(しらかば 2005.10)



≪なくせじん肺・アスベスト県民の集い≫

 今、アスベスト(石綿)被害が、大きな問題となっています。
 第1部では、じん肺とはどういう病気かということを、松本協立病院折井恭子医師が、プロジェクターを使って説明しました。また、長野県トンネルじん肺根絶訴訟弁護団団長松村弁護士は、企業を相手としたじん肺訴訟は第5次まで終わり、恒久的な被害者救済を求めて、国を相手に訴訟を行っている状況を報告し、支援を訴えました。
 第2部では、歌手の上条恒彦さんが、数々のヒット曲を熱唱しました。上条さんは、水俣被害者の詩を作曲した「花あかり」を歌う中で、様々な公害病に対する対策の必要性を語りました。
 参加者は約750名、北海道から炭坑じん肺被害者5名の方々も参加しました。


(しらかば 2005.10)
 


≪突風のような総選挙 木島日出夫≫

 突風のような総選挙が終わりました。前回を上回る29万3千余のご支持をいただきましたが、わずかに7千余票足りずに、再び次点で議席に届きませんでした。とくに、生まれたばかりの国民新党に追い越されてしまったことは、予想外のことであり、残念でなりません。
 残暑きびしいなかご支援いただいた皆さんに、心からの感謝を申し上げます。
 小選挙区制度によるマジックとはいえ、自民党が300近い議席を獲得し、与党だけで衆議院の3分の2を超えてしまった結果には、慄然とする思いです。
 解散前、郵政民営化法案に反対していた多くの自民党議員がその態度を豹変させ、小泉内閣は、障害者に1割の負担をしいる「障害者自立支援法案」や改憲に向かうための「国民投票法案」などを特別国会に提出し、さらに、選挙中はやらないとうそをついていたサラリーマン増税や消費税増税に向かって突き進もうとしています。
 惨敗をした民主党は、新党首が、9条改憲や郵政民営化を競い合う「与党ぶり」をあらわにしています。
 「確かな野党」としての日本共産党の奮闘が求められる情勢になってきていますので、選挙での公約実現のため力を尽くしていきたいと思います。


≪毛利栄子の ~県政さわやか報告~≫

虫の音を聞きながら 議会よりつれづれなるままに  

 議会が始まると、留守を夫にあずけ、土日をのぞきずっと泊り込み。6畳一間の議員会館と本庁者の間を往復する以外は夕ご飯を食べに出掛けるだけ。
 部屋にもどれば、調べ事や原稿書き。今回は一般質問があったので、2、3日は半徹夜状態。これでは県民の皆さんの気持ちを代弁できてないと何度も書き直し、20分で5つの問題をとりあげさせていただきましたが、理事者答弁へのアドリブもあり、この時間配分がかなり難しい。いつも「やったー!」というときがなく反省ばかり。今回もはるばる地元から皆さん傍聴に駆けつけてくださり、何よりの力に。
 議場をでるとき、他派の議員数人から「良かったよ」と言われ、見ず知らずの傍聴者や記者の何人かからもそういわれたのだから「まあまあ」ということか。
 このやり取りを一刻も早く県民の皆さんに知らせようと、共産党議員団事務局のWさんがものすごいスピードでテープ起こしをやり、直ちに議員団ホームページにアップしてくれます。テレビの威力は大きく、映れば激励電話も。
 いろいろな人に励まされ、支えられて元気に議員活動を続ける私。総選挙も終わり、再来年はもう改選。(9月27日夜議員会館にて)


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