これまでに取り組んだ事件

-中国人強制連行裁判-

提訴
 1997年12月22日、中国人7名が原告となって、国と大手ゼネコン4社を被告として、損事賠償と謝罪を求めて、長野地方裁判所に提訴しました。

強制連行
 第2次大戦中、旧日本軍は、各地で非人道的な行為を行なったことは、周知のところですが、わが長野県も無関係ではなかったのです。昭和18年4月頃から 20年5月頃にかけて、「約4万人」の中国人が強制的に日本に連行され、全国各地でダム建設等の労働をさせられました。悲惨なことに、中国の港を出る時か ら、終戦後日本の港を出る時までの間に、死者・行方不明者が「8823人」にも達しました。長野県については、3535名が連行され、その内、261名が 県内で死亡しています。
 実は、長野県には、北海道についで、全国で二番目に多くの中国人が連行されました。木曽各地にある発電所や平岡ダム(天竜村)の建設に駆り出されたのです。
 私も、この裁判に関わってから初めて、この事実を知ったのですが、関係資料を読んでいくうちに、悲惨な実態に唖然としました。

原告の証言
 一人の原告は、次のような体験をしています.昭和19年1月の朝、仕事中、突然、2~3人の日本の憲兵に連行され、厳しい拷問を受けた後、「石家荘」と いう収容施設に送られた.その後、貨物船で下関まで送られ、そこから汽車で下伊那郡天竜村(平岡)に送られた。平岡では、早朝から日没まで、石を採取し運 ぶ作業をさせられ、冬場も暖房のない収容所に寝泊りし、食事は米糠で作った饅頭(マントウ)を1日3回(1回1個)与えられただけだった。この間、原告の 班(18人)の内、6~7人が病気で死んでいる.

生焼けの立体
 裁判のため、先日、平岡に行き、収容所跡なとを調査しました。ここでは、僅か1年位の間に、62名もの死者が出ました.終戦間近になると、火葬用の薪が 不足してきたので、死体が生焼けの状態で、体から埋葬用の骨(喉仏なと)を切り取っただけで、残部は崖から投げ捨てたということです。背筋が凍るような思 いがしました。

訪中調査
 第1回目の裁判が11月6日にあります.その時には、原告の1人に中国から来てもらって裁判所で話をしてもらう予定です。
その準備のため、8月には中国に行き、直接、原告の話を聞くことになりました(実は、強制連行されたのですが・・・)原告の話を十分に聞き、裁判では「強制連行」の実態を明らかにしていくつもりです。(弁護士 相馬弘昭 1998.8 しらかばより)



 前号の特集で、長野地方裁判所に提訴した中国人強制連行裁判を紹介しました。11月6日には第1回裁判がひらかれます。
裁判で「強制連行」の実態を明きらかにするため、8月17日から1週間、調査団が中国を訪れ、原告の人たちに対して聴き取り調査を行ないました。
 そこで、その調査に参加した当事務所の相馬弁護士に報告と感想を聞きました。
 中国から日本に連れて来られて、衣服・寝具などの支給はなされたのですか?
「中国から日本に送られる前に、一度だけ支給されました。」
 中国に帰るまで、一度しか支給されなかったのですか?
「はい。一度だけです。」
 そうすると、衣服なとはポロポロになっていたのではないですか?
「はい。」
 日本で、衣服などの支給を要求しなかったのですか?
「しませんでした。」
 どうしてですか?
「どうせ、帰れないと思っていました。」
 どういう意味ですか?
「新しい衣服を支給されても、とうせ中国に帰れないのだから、新しい衣服なともらっても、無駄だと思っていたのです。」

 これは、私が、裁判の原告の一人、魏香田(ぎこうでん)氏から話を聴いた際の一コマです。氏は、今年70歳で、1944年1月、22歳の時に中国華北省で日本軍に捕まり、その後、長野県天竜村に連行されてきました。そこで、平岡ダム建設の工事をさせられたのです。

 右の話を聴く際、私としては、新しい衣服の要求をしなかった理由として、そんなことを要求すれば懲罰を受けるなどの答えを予想していたので、「どうせ、 帰れないと思っていた。」という答えがあった時、直ぐには、その意味が理解できませんでした。そこで、改めて聞き直したのですが(実は、相当の時間をかけ て、色々な聞き方をしなければならなかったのですが)、彼の言った言葉の意味が、『新しい物をもらっても、とうせ生きて祖国に帰れる希望がないのだから、 もらっても仕方がないという、諦めの気持ち』なのだということを理解して、愕然としました。

 諦めの気持ちというものは、私たちにも多かれ少なかれあるとは思います.しかし、無理やり見知らぬ土地に連れてこられ、食べる物も満足に支給されず、苛 酷な労働をさせられるという極限状況下、ポロポロになった衣服の交換さえ要求しなかった(出来なかった)彼の気持ちは、想像を絶するものが有ります。(弁 護士 相馬弘昭 1998.10 しらかばより)



「中国人強制連行・強制労働」訪中調査に参加して
 訪中調査が2000年の8月20日から27日までの8日間の日程で行われました。調査に参加した一人として内容を報告します。(なおこの調査は、例年この企画に取り組んでいる松本強制労働調査団の同行のもとに行われました。)

証言者はもういなくなる
 「日本政府に賠償を求めます。国際的な礼に従い、正義を守るべきだ」「日本軍は給料をくれるといった。私の給料はいつもらえるのですか」「一番つらかっ たのは飢えて食べられなかったこと。食べられないのが一番つらいことだった」「もう年だから今さら請求してもおそい…もうつかれた」「忙しい中わざわざ来 てくれて、心から感謝します」

 今回7人の証言者(うち長野県の労働者6人)から話を聞きました。これらは証言後に聞いた感想です。証言者のほとんどが現在70才を超えています。今後彼らから再び証言を聞くことはもう難しいかもしれません。    

「日本人」という加害者
 8日間の日程の中では、抗日戦争記念館や三光作戦(日本帝国軍が侵略の一つとして取った作戦。焼き尽くす、奪い尽くす、殺し尽くすの意)の犠牲になった村なども訪ねました。それらをまわって感じたことは、加害事実があまりにも加害国に届いていないということでした。
 抗日戦争記念館では、南京大虐殺、三光作戦、七三一部隊などの侵略や虐殺の写真が多く並んでいました。その中には当時の日本軍が日本刀の切れ味を試すた めに行った「百人斬り」の写真、そしてその横に「○○軍曹と△△軍曹の百人斬り対決、見事○○軍曹勝利」と報道する日本の新聞記事がありました。こういう ものは日本では見ることができず、また日本政府自身も自国で見せることを拒否しています。

戦後補償の先にある未来
 加害を知るためには、自分の足でそこに行かなければ本当の加害を知ることは難しいかもしれません。そう感じた今回の調査でした。三光作戦があった村に訪 れたとき、村の子供たちと写真やビデオを取って遊んだりする一時がありました。その村は間違いなく侵略のあった場所です。しかし、確実にその村も時を経て 子孫が生まれていました。戦後補償を早急に解決し、真の平和を勝ち取ったその先に、その子供たちの中にも、またぼくらの中にも、力強い生命力が脈々と育ち うる可能性を感じずにはいられませんでした。
(2000.8 しらかばより)




加害者がもたらした「戦争の爪あと」
~中国人強制連行・強制労働事件「原告の証言を聞く会」
 戦時中長野県に強制的に連行され過酷な労働を強いられた中国人7名が国と企業に損害賠償などを求めた「中国人強制連行・強制労働事件」の原告である張福 才さん・蒼欣書さんの二人が、法廷で証言をするため来日しました。裁判終了後には県内各地で「証言を聞く会」が開催され、ここ岡谷市でも2001年2月9 日に行われました。原 告から直接証言を聞けるということもあって、当日は予想をはるかに超えた約120名もの参加がありました。通訳を介しての証言のため多少のたどたどしさは あったものの、張さん蒼さん二人は表情を交えながら何とか伝わるように証言をしていました。「紙切れのような作業着1枚だけで、暖房もない状況下で真冬の 木曽を過ごした」「食事も満足に与えられず、けがや病気もまともに治療してもらえないまま、ただひたすら働き続けた」「けがの後遺症によって終戦後も満足 に働けず、家族まで貧乏になった」など、人生そのものを破たんさせた、この強制労働の、戦争の、あまりにも非人間的で、愚弄な行為が、証言の随所に散りば められていました。


(2001.4 しらかばより)


「無理やり働かされた中国人に対しては、安全を配慮する義務がない」 戦時強制連行強制労働長野訴訟で、冷酷な判決 (2006.7)

 

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